『Glitch: designing imperfection』書評

1月 13th, 2010 § 0 comments § permalink

「style is a dead end.」 by angela lorenz

「liveart.org」を運営し、イベントの仕掛人としても知られるパー・プラトーの序文ではじまるこの『Glitch: designing imperfection』は、200ものグリッチ作品と、ハッダーズフィールド大学のイマン・モラーディによる解説、さらにインタビューという形で、Kid 606の〈p.s. i love you〉のCDカヴァーデザインでも知られるアンジェラ・ロレンツ、アメリカの怪しげなサイトを運営し、NES(任天堂エンターテインメントシステム)を元にグリッチを発生させるジョニー・ロジャース、コンポーザーでライターのキム・カスコーン、そしてグリッチという言葉を広めたイギリスのアントニー・スコット、オランダのデザインユニットO.K. Parkingといった面々が紹介されている。

“glitch”という言葉は、ドイツ語とカフカも使っていたイーディッシュ語の「滑る」から由来しているのだが、本書の中では、グリッチとは、パソコンやテレビなどの電子機器から発せられるノイズのことであり、それは、今の時代、多くの人から忌み嫌われる存在として知られている。本来の目的に至る過程でパソコンの画面がクラッシュした際に現れる、支離滅裂なノイズ。継続的に現れることは少ないため、普通の人であれば、「ああクラッシュしちゃったね」と電源プラグを引っこ抜くか、故障したといって修理に出したり、あるいは捨てたりするのが普通であろう。
しかしながら、この本に登場する人たちは、そのクラッシュした画面のスクリーンショットを撮り、あるいはデジカメで撮影し、しっかりと保存している。しかもそこに、美学を見いだしているのだ。考えてみると、こうした嗜好は、エラーや間違いが許されない、窮屈な現代社会の中においては、希有な存在だ。本来は失敗がつきものの人間にとっては、実は、ありがたい提示がされた本であるとも言える。
 そもそも、本書に登場するようなグリッチアートやグリッチデザインとは、音楽の方から登場し、いわば後から援護射撃をするように生まれてきたものである。話は、1990年なかばに遡る。この頃になると、多くの電子音楽レーベル(ドイツのミルプラトーやその傘下にあるリトルネル、そしてオーストリアのメゴを筆頭にして)が、電子機器から発せられるノイズをその楽曲の中に取り入れたコンピレーションアルバム(clicks+cutsなど)などを出すようになった。そのような展開に刺激を受けたパー・プラトーは、1995年、自身が住むノルウェーにおいて、UKSという若手クリエイターらによる組織に参加し、人間が不必要としたオフィスのゴミと化した壊れたコンピュータや椅子、録音されたテープ類を集めて会議の席を設けたりしていた。彼がグリッチをベースにさまざまなイベントを企画し、そこへと至った過程、さらにアーティストになった経緯、そしてコミュニティが育まれる様などが書かれており、興味深い。
 そもそもグリッチ=(イコール)ノイズではない。本書には、興味深いことに、ノイズという言葉がほとんど登場しないことからもわかるように、ノイズとグリッチとは、異なる概念であることが見てとれるし、そうした概念をうちたてようとする意気込みも伝わってくるだろう。「グリッチ」をあえて別の言葉で表現するならば、機能不全を指す。ノイズが、沈黙と対置され、あるいは同様の意味を持つものに対して、グリッチとは、ノイズをミクロに解析し、その中に美学的立場を擁するものである。現在、グリッチが、このような概念を内包するものとして確固たるジャンルを築きあげたのは、その発展においてコンピュータとインターネットの歴史が深く関わっていることに目を向ける必要もあるだろう。その中には、やはりNatoの制作者である、ネトチカ・ネズヴァノヴァ、およびその周辺のクリエイションも多分に影響を及ぼしていると言えるだろう。なぜなら、コンピュータミュージックをやってきた一部のギークたちにとって、nato.0+55+3d modularという存在は、音楽と映像を同時に扱えるモデュラーとして、彼らに広く映像制作を行う機会を与えたからだ。
(もちろん、これは後付けであり、広い視野をもって歴史を紐解いたところの一つの可能性であり、例えば本書にも登場するジョニー・ロジャースのように、任天堂のファミリーコンピューター時代のゲームから影響を受けている者たちも実は多いのである。ゲームのカセットをファミコン本体に差し込んで、ごくたまに現れる本来のスタート画面をランダムに切り刻んだようなエラー画面に魅了された者も少なくないだろう。)

 多くの人が、女の子といいことをしたいがために、ロックバンドをはじめたり、エレキギターをやったりする。このことは、本書でキム・カスコーンが指摘するように、多くの人が純粋に美を追求したり、冒険を望んでクリエイティブな活動をしていない状況において、グリッチを追求する、あるいは愛するというのは、奇異な嗜好である。さらに多くのアートが、何かからの模倣で成り立っているのに対し、グリッチは、その制作の過程において(成果物を取ってみても)、桁外れの独自性を放っている。
 このように、奥行きのあるグリッチの核に迫るとき、私はさらにジョン・ケージについて思考を巡らせてみるのも面白いのではないかと思う。ケージがかつて新ウイーン楽派の創始者と目されるアーノルド・シェーンベルクの下で学んだのは、多くの音楽家が、過去の遺産をミミック(模倣)することによって作っていた状況に抵抗し、対位法や音楽史におけるリニアな模倣の歴史に杭を打ち立てるべく、独自のロジック(十二音技法)から音楽を組み立てようとする姿勢に興味を覚えたからであり、ケージがシェーンベルクの下を去ってからも、音が発生する「状況」を作り上げること、すなわち作曲の中に、自然や機械、そして人から発せられる予期せぬ偶然性を取り入れることで音楽を作り上げることに傾倒し、それをメインの仕事としてきたケージの姿勢は、創造という意味において、自然でも何でも自分の思い通りにコントロールしてやろうという、エゴイスティックな者たちに対置され、時と経たいまなお振り返られるべき存在である。
 そして、わたしがいまだに愛しているドイツのマーカス・ポップの音楽は、グリッチ・ミュージックの始祖として、CDプレイヤー(なくなりつつあるが)を早送りした際に発生するスキップ音を楽曲の中に取り入れた発明者として、わたしの中では、畏敬の存在である。
とはいえ、本書の主題は音楽ではなく、ビジュアル面におけるグリッチを提示した本である。だから、ジョン・ケージよりも、レディメイドを提示したマルセル・デュシャンを例に挙げるべきだったかも知れない。
 わたしは、いまの窮屈な社会のことを考えると、クリストフ・シャルルが提示する「相互浸透」という概念を想起せずにはいられないのだが、コンピュータが広く社会に浸透することで、人間にもコンピュータと同様の正確な処理が求められつつある昨今、実は、グリッチは、「相互浸透」を促すいい転換点になると思うのだ。なぜなら、人が発するエラーの中にこそ、ユニークで現状を打破するアイデアが眠っているという気づきは、人間の進化において、多くを解決する新しい視点となり得るのではないかとも思えるからだ。失敗すれば、すぐに逸脱させられてしまうという社会では、面白いものは生まれない。コンピュータが浸透した社会にとって、グリッチは、かつての巨匠たちが創作過程で経験してきたように、新たなアイデアを生み出すために通過すべきトピックであるとも言える。そう考えていけば、グリッチとは、やはり、ノイズを取り入れる、あるいはノイズそのものへと向かうミクロな視点という単なる形式から逸脱し、より広く定義を構えるものとなる。

 本書には、人間が本能的に、サウンドとビジュアルをどう認識するかという、短いがユニークなキム・カスコーンによるインタビューも見られるし、グリッチ作家として長年活動しているアントニー・スコットのグリッチ作品の制作方法などのインタビューもある。英語が読めない人も、この本の多くの割合を占める豊富なビジュアルを眺めるだけでも、グリッチアートに触れられる。この本に登場する唯一の日本人のうちのひとりである吉田昭彦さんの作品は、堂々と、この本のビジュアルパートの冒頭に配置されているのも注目だ。また、Alex Peverettの作品〈NEW61B〉や〈Virga〉は、どこかマーカス・ポップが作ったOvalprocessのフラッシュ画面と似ているように思え、ノスタルジックに眺めながらも、「エラー」から生まれ切り取られた作品が、どのような形でセンセーショナルに提示されるのかを、期待してしまう。大仰な言葉を、私があれこれ使うまでもなく、時代はいつまでも同じ様相を呈するものではない。だとすれば、グリッチは、アーティストと観客という従来の境界線の上を滑走しながら、さらなる発展をしつづけ、そこここで作られていくのであろう。そのとき、私が冒頭に掲げた、アンジェラ・ロレンツの言葉「style is a dead end.」は、今後のグリッチな表現や、それを享受する人間社会に与えられた課題であるのかもしれない。スタイルに安住するなかれ。

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